25時というより午前1時という気分



 「あれではない、これでもない。そんなものとは全く違う。あんなものと一緒にされたくない。どれもこれもくだらない。」

 あらゆるものから自分を区別して僕自身を形作ろうとしてきた。嫌いなものが増えた。幾分、傲慢にもなった。違いの中から僕自身を探そうとすれば、僕は漫画に描かれる林檎の芯のようにカリカリになっていく。

 映画祭で知り合ったアルゼンチン人のおじさんが新婚旅行で日本に遊びに来る。オススメの文学や映画、音楽を聞いてきて、僕の好きなのを送った。それらは読破したようで数週間後のメールでは「最近はこれを読んだ、あれを見た。Banana Yoshimoto は僕には girly 過ぎたね、Oe は素晴らしい。次は Ogawa の詩を読むんだ。」と送られてきた。すごいなぁと思う。僕がどこかに旅行するときにそこまで勉強して行くだろうか。天候とプラグの形状をチェックするくらい。

 映画を見ても本を読んでも、僕の作品に活かせるところはないか?と考えながら見る。見ている間に新しい作品のアイデアが膨れあがったりしてスポーンと別の世界にいる。人の作品を自分の作品のアイデア膨らまし装置みたいに扱っていた。でもそういう見方はよくないと気づいた。結局、何に触れても僕の内部から一向に広がらない。作品内の世界にどっぷり入り込んで見ると違う充実感があった。作品って こういう風に見るのか、とようやく気づいた。

 大体は部屋の中にいる。コノ文章を書いているコノ部屋であり、身体という部屋でもある。時々、別の世界へ旅行に出かける。何も知らずドゥカドゥカと入り込んで「くだらねぇ」って言って帰って来る。それではあまりにも品がなく失敬な旅行者ではないか。旅行先に醤油を持っていくような作品の見方ばかりしてきた。

 あれもこれも嫌いだったけど、まぁいいや。無関心ということで放っておこう。僕の視野で見える嫌いなものより、視野外にある好きになれそうなものの方が何億倍もたくさんあるだろう。

 寝てる時に耳元をブンブン飛ぶ蝿の音ほど不愉快なものはない。世の中に溢れる嫌いなモノは蝿みたいに小さな存在なので 周囲には気にするな、と言われるけれど、耳元を飛び回る何千の蝿のあの不愉快な音をどうやって忘れられようか。象のように堂々としていたい。

 25歳になった。この一年は殻に閉じこもりすぎて、血や肉が溶解してしまった。正直に言えば、いま僕が何をしたいのかさえ最近ではわからなくなってきている。今まで作ってきたものも今作ってるものもあまり好きではなくて、あーまたくだらないものを作っていると紙を破きたくなる。
 自販機の横のゴミ箱を1秒で蹴り飛ばして、散らばった空き缶を10分かけてゴミ箱に戻す。誰かが飲み残したジュースとゴミ箱の底の汁でベタベタする指先にイライラしながら、ゴミ箱など蹴らなきゃよかったと思う。

 それでもこの気怠くて狭い路地のゴミ箱と格闘する時期は終わりに近づいている。幼虫は蛹化した皮膚の奥で一旦形がなくなるまで溶けていく。養分をドブドブと吸収して形がなくなるまで溶けきろう。殻を突く成虫を外に出してやる時期が来る。

 25歳になった。25時というより午前1時という気分。新しく始める。

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