殺と伐とニャー

 薄暗くだだっ広い地下駐車場では大量の自動車が溶け合っていた。捻じ曲がったドアをこじ開けて血みどろの人々が這い出てくる。駐車場は果てし無く続いている。僕はただただ不快な気分で通過し続ける。人々の呻き声は僕を呼んでいるようだ。僕はなんだか嫌だなって顔をして通り過ぎる。

 通過し続ける夢が延々続いた日の朝、前の日に飲みすぎたコーヒーのせいで胸がむかむかしていた。起き上がるとカメラからSDカードを引き抜く。前の日 夜通しストップモーションで撮りためた写真たちが入っている。少し革命的な気分になって興奮して撮りためた写真をパソコンに取り込んで並べてみる。見直して落胆する。僕の辞書には あ行 から「不可能」という文字がびっしり書き込まれているのか、とさえ思えてくる。

 少し殺伐とした気分になったので The Kinks の “Sunny Afternoon” を聴く。アルゼンチンで実際にいた誘拐一家を描いた映画『エル・クラン』でこの曲が使われていて、それ以来殺伐とした気分の時はこの曲をループで再生する。なんだか誘拐一家の一味みたいな気分、とてつもない過去を背負った男みたいな気分、丸善の書棚にレモンを置いたような気分になれる。

 小学生の頃、誰かが水筒からこぼしたお茶の中で蜘蛛が溺れていて、女の子がギャーギャーわめいてた。すごくうるさくて僕は紙くずでその蜘蛛を握りつぶしてゴミ箱に捨てた。ギャーギャー言ってた連中が今度は「かわいそうだ」と口々に僕を非難した。勝手だと思った。

 “Sunny Afternoon” を数十回ループして、少しふわふわとトリップしたくなったので Animal Collective の “Bagels in Kiev” をループする。僕はこういう宙に浮いちゃうような音調が好きだ。歌詞は意味わかんないけど Grandpop (おじいちゃん) との思い出みたいな感じなのかな。モーゼが海を割ったとき僕はそこにいなかった、みたいなこと言っている。

 すぐに夜になる。夜のニュースはここ最近はアメリカ大統領で持ちきりだ。今日もニュースは同じようなことを言っている。だんだん慣れてくる。驚きを感じなくなる。それは怖い。自分にとってその程度であることが怖い。

 深夜、絵画は何度も絵の具を重ねすぎて遠くから見ると汚く見える。ずっと見ていると視界がぼやけてくる。一つ一つの線にピントが合わないので今日はもうやめようと思う。

 ベッドの中で明日の作業の構想を練る。ここはこうしよう、ああしようと頭の中で考えていると作品が少し進んだような気になる。近所の猫が外で10分以上 泣き続けている。数軒隣の家は移民して来た数匹の猫に占領され、先住民は食料調達人としての仕事に勤しんでいる。

 猫は嫌いじゃない。境内にいた3匹の白猫を1時間くらい追いかけて遊んでいたことも、つい昨日のように思い出される。「猫派?犬派?」などと聞かれても困る。友達の家に遊びに行って You Tube でイヌネコ動画を20分くらい見せられた時は反応に困った。その子はアメリカ人だった。「世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」という歌があったけど笑顔だけで語られても不気味だ。それに比べればイヌネコ語は紛れもなく世界に浸透した言語だ。
 ミネソタ州ではネコ動画だけを集めた映画祭が開催されているそうで、大勢の人が夏フェスのように野外に設置された大型スクリーンに映し出されるネコネコネコを眺めながら芝生に座ってビールを飲む。僕はネコ語がわからないので、できれば字幕が欲しい。

 小さい頃はカメを飼っていた。小さいカメは数年たっても小さいままで三匹いたので見分けもつかず名前もなかった。その亀たちはお盆におばあちゃんの家に二日くらい帰省して帰ってくると、干からびて漢方薬のようになっていた。暑い夏の日。

 朝、目がさめる。今日は何も夢を見なかった。近所の人が昨日の鳴き声は猫じゃなかった、と言っていた。

 イタチの親子が二匹、屋根伝いに夜の町を徘徊していた。子イタチは足を滑らせて家と家の間に落ちてしまった。冷たいアスファルトに打ち付けた身体にはもう息がなかった。親イタチは泣き続けた。上階の窓からその泣き声に気づいたホモサピエンスが顔を覗かせ、親イタチは子イタチを咥え、どこかへ消えていった。

 鳴き声だと思っていたものは泣き声で、親イタチの叫びは妄想の中のイヌネコ動画の音にかき消された。僕はそういうところがある。










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