24時過ぎ



作品作ってて凄く良い気分になって、「たのしぃー!!」って興奮して、でもシャーペンの芯を入れ替えている間にふっとつまんなくなって、消しゴムを新しいのに変えたらまた急に楽しくなったりする。日々そういうのを繰り返しながら、えんやこらと作品を作る。「今世紀最大の芸術家になるのだっ」と自信満々になり「全部虚勢だろ」と自信喪失する。その間を小刻みに振動しながらジトリジトリと前進するナメクジのよう。

コノ前思い立ってベトナムに行った。僕のいつも生きている世界や作品の発想は(言い方は違うかもしれないけど)あまりにも先進国的過ぎて、最近のARだとかVRだとかテクノロジーがどうたらという次元の議論に窮屈さを覚えていた僕には良い気分転換だった。

これから先どんな時代でどんな媒体で作品を作っていても絵が描けるアーティストでいたい。

今年はインド旅行する予定。放浪っていうと古臭い。最近ちょっとケッペキショウなのでガンジス川には入れないと思う。笑 
昔インド人の子とルームシェアしてたけど、なかなか自己中心的で面倒な奴だった。(ごめんよ。)でもカレー作ってくれたり優しいトコもあって、また会えたらいいなぁと思う。あとチベットにも行きたい。「ラサへの歩き方」って映画見て行ってみたくなった。チベット仏教の本を読んで勉強しようと思いつつ、まだ開けてない。


ベトナムにはカオダイ教の本山があって、ホーチミンからバスで4時間くらいかけて行った。カオダイ教は五大宗教が混沌とミックスした新興宗教でベトナム国内には100~300万の信者がいる。思ってたのとは違うかったけど、ニヤニヤするとこもいろいろあった。

いろんな世界があって違う時間が流れてるなら、いろんな場所に行ってその時間を体感したい。

「群がる蟻の中心にあるのは飴かもしれないけど蛾の死骸かもよっ。」
どちらにせよばっちいね。





最近はもう過激な表現とか好きじゃなくなった。わかりやすく過激で派手なモノが多くなりすぎてて、1984のニュースピークのように簡略化された感情表現が溢れていて、三色ボールペンしか色の選択肢がないような世界になりつつある。そんな気がする。

こんな世の中で何を作れば良いのだろうと思う。出来れば無視したくない。でもグルングルン回る乗り物の中にいて感覚器がどんどん麻痺している。
22歳が終わる頃に1年後 世界はどうなるんだろうと思ってたけど、こんな感じだった。





最近よく映画館に行く。ぼーっとする。この前はミッシェル・ゴンドリーの「グッバイ・サマー」見に行った。僕の幼少期はそんなに劇的ではなかったけれど、少し思い出すとこがあった。好きな映画が増えた。

暴力系、エログロ、闇社会 そういう映画は見てて疲れる。ドキュメンタリーはたまに見るけど、フィクションでそういうの撮って攻めてるっしょ、クールっしょみたいな感じはついていけなくなった。人が死ぬ映画もあんまり好きじゃなくなった。堕ちていく、みたいなのも好きじゃない。小さな不幸と小さな幸の間で漂っていてほしい。

カンフーパンダここ最近で一番笑った。入り浸ってた友達の家のハウスメイトにティーボーって子がいて、メインのパンダの喋り方がどことなく似てて、冗談の言い方とか会話の最後にちょっといらんこと言う時の抑揚の付け方とか似てた。庭で打ち上げ花火したこととか部屋でジャムしたのとか思い出した。僕はお気持ち程度の小さなマラカスを邪魔にならないように振っていた。


イギリスの友達がバイクでヨーロッパどっか旅行しよう、っと言うので免許取ることにした。ベトナムはバイクの往来が激流のようで、こんなとこでも皆 生きてるんだから僕も乗れるかも、と思った。





22歳から23歳、23歳から24歳へと歳を重ねていくにつれて僕の身体に覆いかぶさる現実氏はブクブク太っていく。社会的にどうにかならないと、とか考える時もある。「これからどうするん?」って聞かれることもある。でも思い出した。「あっ僕はアーティストだ」と。

この前、領収書まとめたり書類の整理をしなくちゃいけなくて「アーティストがこんなことできるかよっ」ってブツブツ言ってたけど、やったらやったでそれなりにできて逆に自分が嫌になった。

性格上チャランポランにはなれないし、なりたくはない。面白いアーティストになりたいけど、今の僕は現実的すぎてみみっちい。

この数年の僕は完成形を求めていたけれど、きっと完成されたモノなんてありふれててミニマルなデザインみたいに一見オシャレだけど大した味のしないものだと思う。もっと詰め込んで、頭の中 足の踏み場もないくらいぐっちゃぐちゃにして、ずっと混乱しながら広がっていく未完成、手に負えないような作品、そういうモノ、そういうヒトになる。

24歳はクレイジーでエクスペリメンタルな一年にしたい。

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